2018/07

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1966(昭和41)年6月30日、静岡県清水市(現静岡市)で一家4人の殺人放火事件が起きました。

 元プロボクサーで、再起を期して働いていた袴田巌さんは、身に覚えのない罪で犯人とされ、死刑を宣告されてしまいました。

 巌さんは41年間も拘置所に閉じ込められたまま、無実を訴えています。しかし、巌さんの精神はもう限界にきています。長い間、家族もなかなか面会できない状態でした。

 袴田巌さんの再審を実現し、一刻も早く獄中から救い出すために、どうぞみなさまのお力をお貸し下さい。


その夜の出来事

 死体は四体。石油のような油をかけられ、火をつけられたので、四体とも黒焦げだった。もちろん家屋も焼失した。

 火災が起きたのは、一九六六年六月三〇日の午前二時少し前である。場所は静岡県清水市横砂。惨劇は、味噌製造会社専務の居宅兼事務所で起きた。殺されたのは、専務(41)の他、妻(38)、次女(17)、長男(14)の四人。長女は、別棟に寝ていたので助かった。                      

 メッタ刺しにされた死体の刺し傷はあまりに多く、正確な数はわからない。四人の傷の総計は、少なくとも四五ヵ所。警察は、焼け跡から発見されたクリ小刀一本を凶器としたが、先端がわずかに折れていただけだった。刃こぼれもしていない。また、警察の調査によると、約八万円のカネが奪われたというが、橋本家にあった多額の金品は、手つかずに残されていた。

 アリバイ

 「こがね味噌」の従業員だった袴田巌さん(30)は、仕事が終って夕食の後、橋本家に近接した工場の二階にある寮の自室に帰った。同僚と将棋をさした後、テレビドラマを見た。午後一一時過ぎ、パジャマに着替え、消灯し寝た。

 消防車のサイレンの音で目がさめた。グッスリ寝こんでいたので、しばらくの間ウトウトした。「店が火事だ」という隣の部屋にいた同僚の叫び声に飛び起き、パジャマのまま自室を出て駆け降りた。気持ちが動転していたが、とにかく水をかけなければと思い、工場の中でバケツを探した。同僚が「消化器、消化器」と大声で駆けてきたので、一緒に探したが見つからない。やっと消火栓に取り付けるホースを見つけ、同僚たちとホースの束を持って、事務室の前にある消火栓に走った。土蔵の後ろにある物干台に上り、屋根によじのぼった。足をすべらして落ちた時、ブリキか何かで左手の中指に怪我をした。火事は二〇分程で鎮火した。消火作業中に水をかけられズブ濡れになった。

  その後自室に戻った袴田さんは、とりあえず中指の怪我の出血を止めるために、手ぬぐいを引き裂いて縛った。消毒をしなかったので、後に傷跡が化膿して医者に見てもらうことになった。

 これが事件当夜の袴田さんの取った行動のすべてである。アリバイは完ぺきで、袴田さんと事件との関係は皆無だった。

 自白の強制

 八月一八日、袴田巌さんが逮捕された。彼は一九日間、無実を主張し続けたが、連日の厳しい取り調べに、モウロウとした状態になり、ついに九月六日、警察の筋書き通りの犯行を自供させられた。その内容は、おおよそ次のようなものであった。

 六月三〇日の午前一時過ぎ、クリ小刀をパジャマのズボンのヒモに落としざしにして、寮の自室を出た。隣家の楓の木から専務宅の倉庫の屋根に移り、雨樋(あまどい)を伝って中庭に降り、侵入した。家人に発見され、専務を殴り倒し、専務以下四人をクリ小刀で殺害、現金を強奪した。その後死体に混合油を振りかけ、マッチで火をつけて逃げたというのである。罪名は「住居侵入、強盗殺人、放火」だった。

 しかし、この自白を裏付ける物的証拠は何もなかった。警察は、袴田さんを容疑者ときめつける物的証拠を何も発見していなかったのである。元プロボクサーだから「やりかねない」という先入観が、捜査官の頭を支配したらしい。警察の内部文書にも、こう書いてある。

 「本件は、被告人の自白を得なければ、真相は握が困難な事件であった」。

 則ち話は逆なのである。警察は、袴田さんに嫌疑をかけ、逮捕する充分な証拠は何一つ発見していなかったのである。

 こうなれば捜査官は、無理やり袴田さんの「自白」をとる以外に手はなかった。一日の取り調べ時間は、平均一二時間。最高は、実に一七時間にのぼった。袴田犯人説は、警察の拷問が作り出した虚構であることは明白だった。

 迷走判決

 一九六六年一二月一〇日、静岡地裁で公判が始まった。袴田さんは、公判開始から終始、無実を主張した。しかし六八年九月一一日に出された判決は死刑だった。最高裁でも上告棄却され、一九八〇年一一月一九日、死刑が確定した。

 一審判決文は、死刑判決を出す根拠にとぼしい、およそ日本語としても支離滅裂の文章だった。提出された袴田さんの供述調書四五通のうち、証拠として採用されたのは、たった一通だけである。しかし他の四四通の内容と異なった特別の内容があったわけではない。即ちこの一通の自白調書を採用した論理的根拠は何もなかった。

 判決文では、専務と格闘の具体的状況は不明。妻、二女、長男を刺殺した順序も不明というていたらくだった。また、最初検察側は、犯行時はパジャマを着用していたとしていたが、殆ど血痕がなかった。公判が袋小路に迷い込み始めた六七年八月三一日、突然、工場内の味噌タンクから発見されたということで、大量の血痕が付着した五点の衣類が証拠として提出された。ところが、味噌タンクに入れた際の具体的状況及び日時も判決文によれば不明というのである。具体的には、犯行の実体については、分からぬ一点ばりなのである。

 このような小学生の作文以下の判決文の矛盾を指摘することは簡単である。然し、再審請求棄却決定の文章の中でも一言もふれていない、全く反論出来なかった「五点の衣類」についてだけ述べることにする。なぜなら、袴田さんを犯人として立証できる唯一の物的証拠は、まさにこの「五点の衣類」だけだからである。

 血染めの五点の衣類とは、スポーツシャツ、ズボン、白半袖シャツ、白ステテコ、ブリーフである。血痕の付着状況を血液型で見ると、スポーツシャツはとA、ズボンはA、その下のシャツはBとA、ステテコはA、ブリーフはBとAである。専務の血液型はA型で、万べんなく付着している。妻はB型で、シャツとブリーフだけ、長男は型だが、これはシャツだけである。二女の血液型はO型だが、一〇カ所も刺されているのに全くついていない。血痕付着の整合性があるのは専務だけである。妻のB型血液は、ズボン、スポーツシャツ、ステテコを飛びこえて、シャツとブリーフだけについている。長男のも不自然である。血液の付着状況は経験則に明らかに反しているのである。

 凶器とされたクリ小刀の問題。

 この問題に入る前に、二〇〇〇年一二月三〇日から三一日にかけての深夜、東京世田谷区上祖師谷で起きた、一家四人全員が惨殺された事件を想起してみよう。

 被害者が受けた傷は、それぞれ十数カ所。合計三十数カ所であった。凶器は文化包丁と柳刃包丁である。文化包丁は先端が折れ曲っていた。柳刃包丁は先端が三つに折れていたとのことである。犯人の手についていたと思われる血痕もおびただしくついていた。

 袴田さんは右手にクリ小刀の柄をにぎり、四四回も四人の被害者を突き刺したことになっている。しかし彼の手の平には、まったく傷がついていなかった。袴田事件の判決文によっても、袴田さんの右手の甲と右上腕部に小さい傷があっただけである。もし袴田さんの犯行であるならば、四四回に及ぶ刺突で、袴田さんの手の平も甲も血まみれになったにちがいない。クリ小刀には鍔(つば)がついていないからである。しかし彼の手の平には切傷がついていなかった。

 第二に、クリ小刀は、先端がわずか一センチ程度折れた程度で、あとは原形をとどめたままである。刃こぼれもない。

 また検察調書で、袴田さんが逃亡したとされている裏戸の問題について、「救う会」の木下信男氏が『裁判官の犯罪「冤罪」』で、詳細で正確な反論を行っている。

 供述調書によれば、袴田さんは、裏戸にかかっていたカンヌキを右によせ、扉の下にあった石や留め金をはずしただけで、上の留め金ははずさずに、下の方を体の出入りできる位開け、無理な姿勢で外に出たことになっている。

 しかし第一審の法廷で、消火に駆けつけた住民の一人は、裏戸は「押しても引いても、びくともしなかった」と証言している。そのため消防士らが体当りで裏戸を押し開けた。そのときカンヌキは二つに折れたのであると木下氏は指摘している。即ちカンヌキはかかっていたのである。そうであるならば、裏戸脱出後、どうやってはずしたカンヌキを外からかけなおすことができたのか。

 このように裁判に提出された証拠群は極めて不自然で、作為のあとが色濃く出ている。何故このようなことが起きたのか。公判の行詰まりにあわてた警察の方で、これらの「証拠」をネツ造したとしか考えようがない。しかし棄却決定でもこれらの問題には全く触れていない。この点こそ袴田無罪を証明する核心的な証拠なのにである。

 こういう殺しの証明法でいけば、誰でも犯人にさせられる可能性がある。お前が犯人だと警察官、検察官がきめつければ、それで終りである。

 支  援

 袴田巌さんの弁護には、日弁連袴田事件弁護団が当っている。また一九九九年八月に病没した安倍治夫弁護士は独自の立場から、私たち「救う会」と共に弁護活動を行って来た。安倍弁護士は、吉田ガンクツ王事件、免田事件等の冤罪事件に力を注いだことで名を知られており、五点の衣類についても、早くから再審請求理由補充書でその矛盾を指摘して来た。

 一九九四年八月、再審請求から一三年目に静岡地裁は不当にも請求を棄却。東京高裁での即時抗告審に対しても、安倍弁護士はさらに詳細にこの矛盾を指摘した。また日弁連弁護団は「五点の衣類」の血液についてDNA鑑定を申請したが、二〇〇〇年七月鑑定不能との結果が出た。二〇〇一年八月、弁護団は元裁判官の秋山賢三弁護士を中心に最終意見書を作成、提出。しかし二〇〇四年八月二七日、東京高裁第二刑事部(安廣文夫裁判長)は、即時抗告を門前払い同様に棄却したため、弁護団は最高裁に特別抗告した。

 東京拘置所にいる袴田巌さんは、十数年前から精神を病み、家族、支援者との面会もほとんど出来ない状態が続いた。「救う会」と有志の弁護士は、袴田さんを外部の医者に見せることなどを求めて、三回にわたり人身保護請求を起したが、裁判所は請求を棄却した。

 二〇〇三年三月には、保坂展人衆議院議員の尽力で一二年ぶりにお姉さん、弁護士の面会が実現した。その後また面会できなくなったが、三年八ヶ月後の二〇〇六年一一月からは、定期的に面会している。しかし、拘禁性精神病のため妄想の世界に住んでいるようである。

 「救う会」は、再審を求める要請ハガキを首相、法務大臣、東京高裁に送る活動を展開、二〇〇四年五月には東京多摩地域のタブロイド紙アサヒタウンズに一面意見広告を掲載した。二〇〇四年九月には、伊NGO・聖エジディオ共同体主催の「第18回「世界宗教者・平和のための祈りの集い2004」(イタリア・ミラノ)「死刑廃止分科会」に門間幸枝副代表を派遣。会場で袴田事件の英文パンフレット配布、国際署名を集めた。現在は、司法関連の公開学習会を開いてえん罪への理解を深めるとともに、袴田巌さんの再審を求める請願書(署名)を集めている。

 最後に袴田巌さんが書いた獄中書簡を紹介する。

 「……殺しても病気で死んだと報告すればそれまでだ、といっておどし罵声をあびせ棍棒で殴った。そして、連日二人一組になり三人一組のときもあった。午前、午後、晩から一一時、引続いて午前二時まで交替で蹴ったり殴った。それが取調べであった。……息子よ、……必ず証明してあげよう。お前のチャンは決して人を殺していないし、一番それをよく知っているのが警察であって、一番申し訳なく思っているのが裁判官であることを。チャンはこの鉄鎖を断ち切ってお前のいる所に帰っていくよ。」(一九八三年二月八日)